秋田県 / AREA GUIDE
久保田城跡を利用した千秋公園。緑の散策を通して、城と藩主ゆかりの信仰が残る秋田をたどれます。
写真や説明を読み、気になる場所を選んでみましょう。
中心から約1.8kmを目安にした周辺検索エリアです。正式な地域境界や徒歩圏を示すものではありません。
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歴史・文化
久保田三十三札所の四番は、東通明田の磯前神社境内にある観音堂の札打ち場。古い札所案内では長泉寺と記されるが、秋田市史の民俗調査は実際の巡拝場所をこの観音堂とする。小正月には故人の戒名を記した札を納め、地元の人が鉦と御詠歌で巡礼者を迎えてきた。
参考資料:個別地点に関する調査資料(資料をもとに当サイトが作成)
久保田城跡の碑は、秋田藩佐竹氏の居城だった場所を示す石碑。市制90周年などを記念し、秋田矢留ライオンズクラブが1979年に寄贈した。黒御影石の碑に当時の秋田市長が揮毫しており、城郭から市民公園へ変わった場所の歴史を示す目印となっている。
参考資料:千秋公園内の碑・個別解説(資料をもとに当サイトが作成)
久保田城跡石碑は、佐竹氏の居城だった久保田城の入口付近に立つ城跡の目印。城は自然の台地を利用した平山城で、天守閣や大規模な石垣を設けなかった。現在は千秋公園となり、碑から坂を上ると門跡や土塁、本丸跡をたどれる。城の構造を歩いて確かめる出発点である。
参考資料:個別地点の調査資料(資料をもとに当サイトが作成)
久保田藩黌明徳館址は、秋田藩の藩校「明徳館」があったことを示す史跡。千秋公園から秋田駅へ向かう城下の街区に位置し、城だけでなく武士の学びの場が町に置かれていたことを伝える。現在の周辺には明徳館の名を受け継ぐ施設もあり、藩政期の教育の記憶をたどれる。
九右エ門稲荷神社は秋田市保戸野すわ町、保戸野小学校と諏訪愛宕神社に近い小社。周辺は江戸時代の旧保戸野諏訪町に当たり、佐竹氏の秋田入部後に諏訪神社を迎え、寛永期には侍屋敷町となった。大きな保戸野神社のそばに残る稲荷の社から、武家町にも地域ごとの小さな信仰があったことを感じられる。
佐竹義堯公銅像は千秋公園本丸に立つ、秋田藩最後の藩主の像。義堯は戊辰戦争で新政府側に加わった。1915年に最初の像が建てられたが戦時中に撤去され、戦後の寄贈を経て1989年に元の大きさで復元された。藩政から近代への転換と戦争による文化財の変遷を伝える。
佐竹義堯銅像再建委員会碑は、最後の秋田藩主の銅像が再建された経緯を伝える碑。元の銅像は太平洋戦争中の金属供出で失われ、戦後に有志が佐竹家に残った原型を使って再建した。1953年建立の碑にはその経過を記した銅板が埋め込まれている。
自然
保戸野街区公園は秋田市保戸野地区の住宅街にある小公園。市の公園資料では約0.13ヘクタールが開設済みで、計画区域の見直しも行われた。旭川の河川敷に近い土地を含めて長く検討されてきた都市計画公園で、周辺の生活道路から立ち寄れる近隣の緑地となっている。
参考資料:地点を記した調査資料(資料をもとに当サイトが作成)
芸術・学び
勝平得之記念館は秋田市立赤れんが郷土館の新館三階にある展示室。秋田の自然、農村の暮らし、祭りなどを版画に描いた郷土の作家・勝平得之の作品を紹介する。季節やテーマに応じて展示が替わり、作品を通じて近代の秋田の風景と人々の生活を見られる。
勝平神社は秋田市保戸野鉄砲町に鎮座する神社。大同年間に坂上田村麻呂が陣中守護として勧請したという創建伝承を持つ。明治期の大火や神社の合祀を経て1887年に現在地へ移り、1892年に勝平神社と改称した。境内の石造狛犬や、地口絵灯ろう祭りは秋田市の指定文化財となっている。
勤斎渡部先生記念之碑は、秋田藩最後の儒学者の一人・渡部広成を記念する碑。湯沢出身で「勤斎」を号し、教え子たちが1890年に建立した。碑には人物像と功績を記す長い漢文が刻まれ、久保田城跡が藩の学問を後世へ伝える場所にもなったことを示す。
区画整理完工記念碑は、秋田駅東側の街路に残る、土地区画整理事業の完了を記念する石碑。県の都市計画資料によると秋田駅東第一地区では秋田市が約24.6ヘクタールを整備し、1980年に換地処分を行った。現在の道路や宅地の形が整えられた経緯を示すもので、駅東口から東通方面へ広がる市街地の変化を知る手がかりになる。
参考資料:個別地点の地図記録(資料をもとに当サイトが作成)
古秋園金君頌徳碑は、秋田藩士で俳人でもあった金易右衛門の功績を記す碑。蚕業振興に尽くし、能代奉行や勘定奉行などを務め、藩の財政運営にも関わった。1891年建立の碑には千字を超える漢文が刻まれ、城下を支えた実務家の多面的な仕事を伝える。
この唐松神社は大仙市協和の本社ではなく、秋田市広面字赤沼の太平山三吉神社里宮に祀られた赤沼唐松神社。地元の赤沼講中が大仙市の唐松神社から子授け・安産の神の御分霊を迎えたと伝わる。太平山を信仰する三吉神社の境内で、地域の人々が受け継いできた別の信仰にも触れられる小社である。
善長寺は秋田市大町六丁目にある浄土宗の寺院で、山号・院号は養根山西光院。久保田城下の三十三所観音巡礼では第十七番札所にあたる。本尊は阿弥陀如来とされ、観音巡礼の札所としても受け継がれてきた。寺町の南寄りを歩く際、寺と巡礼文化のつながりを感じられる場所である。
地主稲荷神社は秋田市東通明田の明田富士の麓、磯前神社や明田神社に近い住宅街にある小社。現地を歩いた記録では、かつて境内に「千歳の松」と呼ばれる保存樹があったとされる。近くの標高35メートルの明田富士には稲荷大明神と富士大権現も祀られ、複数の信仰の場所を歩いて巡れる。
報恩碑は千秋公園に1888年に建てられた石碑。秋田市の説明では、藩政時代から明治初期に藩や県に表彰された人々が感謝を示し、若い世代の奮起を願って建立したとされる。安山岩製の碑は、旧城跡が市民の顕彰の場へ変わっていく明治期の空気を残す。
この板碑型の墓標は、秋田市手形大沢にある平田篤胤墓所の一角に位置する。篤胤は秋田生まれの江戸後期の国学者で、遺言によりこの丘に葬られた。墓所には篤胤と妻たちを顕彰する招魂碑もあり、周囲の墓標とともに国指定史跡の近くで一族をしのぶ場となっている。
手形大沢の平田篤胤墓所にある板碑型墓標の一つ。丘の上には「平田篤胤之奥墓」と刻まれた自然石の墓があり、篤胤と妻を顕彰する招魂碑も残る。国学者の遺言で定められた埋葬地を歩くと、墓碑が集まる配置から篤胤をめぐる追慕の歴史をたどることができる。
大元町街区公園は秋田市楢山大元町の住宅地にある小公園。羽越本線の楢山踏切に近く、地域の道路と線路が接する一角に位置する。秋田市の公園整備資料では、同じ大元町の児童遊園地が住宅地の中で子どもの遊び場となっている様子も紹介されている。この地区の身近な緑地をたどる際の目印になる。
大山祇大明神は秋田市大町六丁目の羽州街道沿いにある小社で、同じ場所の正一位稲荷大明神とともに祀られている。現地を歩いた記録には昭和八年の奉納物と、町内集会所を兼ねる社の様子が残る。寺町や感恩講発祥の地へ続く大町筋で、町人の信仰をたどれる場所である。
大悲寺は秋田市旭北寺町にある寺院で、かつて妙覚寺・光明寺とともに「湊三か寺」と呼ばれた。佐竹義宣が久保田城下を整える際、外町の西側に形成した寺町へ移された寺の一つ。境内や周囲の寺院を歩くと、城下町で寺を一角に集めた町割りの様子を読み取れる。
その他
大手門跡は、久保田城へ入る大手側の門があった場所。秋田駅から千秋公園へ向かう入口に近く、周辺には大手門の堀と城内へ続く道が残る。石垣や天守閣を持たなかった城でも、堀と門によって出入りを制御していたことを知る、城跡散策の起点となる。
太子神社は手形地区で「てしこさん」とも呼ばれた小社。秋田市の散策地図には、木彫りの太子像を担いで町を巡ったことや、通町・大工町などの職人が信仰したことが記されている。神像が子どもに親しみをもって受け入れられたという伝承も、地域の暮らしぶりを伝える。
太子神社を記す地点は、手形地区の職人信仰を伝える史跡。かつて木彫りの太子像を神輿として町へ出し、通町や大工町の職人たちが御利益を求めたと伝わる。秋田市の散策地図では「てしこさん」の通称や子どもに親しまれた神像の話も紹介されており、城下の手仕事の文化を知る手がかりとなる。
「太平山」と刻まれたこの石碑は、実際の山頂ではなく、秋田市手形付近に立つ太平山信仰の記念物。市の文化財マップは、太平山講の人々が信仰上の登山を続け、石塔や祠を建てたと紹介する。身近な場所に石碑を置き、東にそびえる霊峰への信仰を伝えたことが分かる。
参考資料:個別地点を記した秋田市資料(資料をもとに当サイトが作成)
太平山三吉大神崇教之碑は、太平山三吉大神への崇敬を刻む千秋公園の石碑。昭和天皇の即位を記念して秋田市河辺出身の田近勇蔵が1928年に建立した。粘板岩の碑だけで高さ約6メートルあり、園内の碑では最大とされ、秋田の山岳信仰の存在を街なかに示す。
如斯亭庭園は久保田城跡の北方に残る、秋田藩主佐竹氏の別邸庭園。起源は元禄年間にさかのぼり、九代藩主義和の代に整えられた。園路を歩くと玉鑑池、仁源泉、清音亭など「園内十五景」を巡れる。佐竹氏ゆかりの庭園として唯一現存し、2007年に国の名勝に指定された。
妙圓寺は、秋田市旭北寺町に並ぶ真宗大谷派の寺院の一つ。寺の近くには「妙圓寺阿弥陀碑」と呼ばれる板碑があり、秋田県の遺跡地図に記録されている。碑の造立年代は判明していないが、久保田城下の寺町に残る石造物として、町の信仰の歴史を伝える。現在の寺町は、佐竹氏による城下町づくりの際、外町の西側に寺院を集めて形成された。
妙覚寺は秋田市旭北寺町にある、土崎湊から久保田城下へ移された寺院。大悲寺・光明寺とともに「湊三か寺」と呼ばれ、古四王権現を鎮守としたと伝わる。佐竹義宣の城下町建設により寺町へ移った歴史を持ち、周囲の寺院とあわせて藩政期の町割りをたどれる。
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