鹿児島県 / AREA GUIDE
照国神社から海辺の公園や水族館へ。城山周辺と鹿児島中心部の歴史・景観を組み合わせられます。
写真や説明を読み、気になる場所を選んでみましょう。
中心から約2.5kmを目安にした周辺検索エリアです。正式な地域境界や徒歩圏を示すものではありません。
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歴史・文化
南洲翁終焉之地(なんしゅうおうしゅうえんのち)は、鹿児島県鹿児島市城山町にある西郷隆盛(南洲翁)が自刃した場所を示す石碑。「西郷隆盛終焉の地」として鹿児島市の記念物(史跡)に指定されている。
説明の出典:南洲翁終焉之地 · 日本語Wikipedia執筆者 · CC BY-SA 4.0(抜粋・短縮)
自然
古田ヶ浜公園は、下荒田2丁目45番の住宅地にある街区公園。鹿児島市の都市計画公園一覧では、1957年4月開設、面積約0.13ヘクタール。下荒田は甲突川と海の間に広がる市街地で、古い「浜」の地名を残す公園が、子どもの遊びや近所の人の散歩の場所となっている。
参考資料:地点ごとの調査資料(資料をもとに当サイトが作成)
鹿児島市加治屋町にある薩摩藩士・吉井友実の誕生地。吉井は1828年に生まれ、西郷隆盛や大久保利通と若いころから親交があった。流罪となった西郷の復帰を求め、幕末には藩政と討幕運動にも関わった。維新後は政府の役職を歴任し、日本鉄道の社長も務めた。
参考資料:史跡・観光スポット個別解説(資料をもとに当サイトが作成)
「噫壮烈法亢盛孝君」は、加治屋町の甲突川左岸緑地に立つ人物顕彰の石碑。鹿児島市内の石碑を記録した資料では、西郷隆盛や大久保利通の誕生地碑などと同じ加治屋町の項に挙げられる。碑名には法亢盛孝という人物への追悼が刻まれ、近代の地域史を歩いてたどる散策路の一地点となっている。
城南公園は、鹿児島市城南町5番の街区公園。市の都市計画公園一覧によると、1965年4月に開設され、面積は約0.11ヘクタール。城南町は鹿児島港の新港区にも近く、住宅地と港湾地区が接する場所にある。港へ向かう街路のそばで、日常の遊びや休憩に利用できる小さな緑地である。
城山(しろやま)は鹿児島市中央部にある山、あるいは丘陵。国の史跡(史跡「鹿児島城跡」のうち)および天然記念物に指定されている。かつては鶴丸山・上之山と呼ばれていた。 1877年(明治10年)、西南戦争の最終決戦である城山の戦いが城山付近で勃発し、西郷隆盛ら士族の敗北により終結した。
説明の出典:城山 (鹿児島市城山町) · 日本語Wikipedia執筆者 · CC BY-SA 4.0(抜粋・短縮)
街並み・景観
鹿児島県鹿児島市街地、錦江湾、桜島を見渡す城山の展望台。標高約107メートルの城山にあり、晴れた日には霧島や開聞岳を望めることもある。周囲には約2キロメートルの自然遊歩道が通り、クスなど多様な樹木が育つ。城山は西南戦争最後の激戦地でもあり、1931年に国の史跡・天然記念物に指定された。
書家・堀井鶴畔を記念する甲突川沿いの書碑。広島大学の資料目録には、鹿児島県書道会が1987年に刊行した顕彰書碑記念誌が記録されている。鹿児島の書道教育と書道会の発展に関わった人物の筆跡を街の散策路で見ることができる。
新屋敷町の塩竃神社境内に立つ、塩屋学舎の跡を伝える記念碑。神社の由緒・沿革でも境内に「塩屋学舎遺跡記念碑」があることが紹介されている。鹿児島城下で地域の青少年が集まり学んだ学舎の名を現在に伝え、神社を訪ねる際に地域の教育史にも触れられる。
新屋敷町の塩竃神社は、かつてこの一帯が塩田だった時代に、塩づくりを生業とする人々の産土神として信仰を集めた。神社の由緒には旧塩屋村から沖之村にかけての海浜と塩田の歴史が記される。境内には塩屋学舎の跡を示す碑もあり、海辺の産業と地域の学びの両方を伝える場所である。
鹿児島市高麗町にある明治の政治家・大久保利通の誕生地。大久保は1830年にこの付近で生まれ、間もなく加治屋町に移った。西郷隆盛らとともに郷中教育を受け、維新後は廃藩置県や殖産興業を進めた。市の観光案内では鹿児島中央駅から歩いて訪ねられる幕末史跡として紹介される。
明治政府の中心人物となった大久保利通の誕生地を示す碑。大久保は1830年に鹿児島城下に生まれ、下加治屋町で育った。西郷隆盛と同じ地域の郷中教育を受け、後に明治維新と新政府の改革を進めた。
参考資料:鹿児島の史跡めぐり資料(資料をもとに当サイトが作成)
鹿児島県鹿児島市下荒田に立つ政治家・松方正義の像。松方は鹿児島城下出身で、大蔵卿・大蔵大臣として財政改革を進め、日本銀行の設立に関わった。第4代と第6代の内閣総理大臣も務めた。市の観光案内は、財政政策を担った明治の政治家の記念像として紹介している。
鹿児島市金生町にある大國主神社。境内には「下町区会」と刻まれた石碑があり、江戸時代の鹿児島城下で町人町が広がった地区の歴史を伝える。金生町を含む下町は明治・大正期にも商店街のような結束を保ったとされ、神社は街の自治の記憶を残す場所である。
薩摩藩が鹿児島の海岸防備のため築いた大門口砲台の跡。島津斉彬の命で1854年に完成し、1863年の薩英戦争の際にはイギリス艦隊に備える拠点の一つとなった。海沿いの防衛史を示す史跡。
参考資料:鹿児島市史跡めぐりガイドブック中央地区PDF 50頁(資料をもとに当サイトが作成)
繁華街・天文館にある市街地の公園。2013年に再整備され、街なかで休憩したり催しに参加したりできる開放的な広場となっている。 位置は北緯31.5881度、東経130.5561度付近。現地では周囲の道路や橋を目印に訪れたい。
参考資料:天文館公園に関する公開資料(資料をもとに当サイトが作成)
小川町23番の小川公園は、1956年4月に開かれた約0.09ヘクタールの街区公園。鹿児島駅や上本町から歩ける住宅地にあり、近隣の子どもの遊び場や休憩場所として利用される。利用者の記録では木の実が落ちる様子やトイレの存在も紹介され、街中で季節を感じられる小さな公園である。
鹿児島城下の上之園町に生まれた山之内一次の誕生地を示す地点。山之内は明治から大正期に官僚・政治家として活動し、第11代北海道庁長官も務めた。北海道の赤れんが庁舎展示ガイドに経歴が紹介され、鹿児島から中央政界へ進んだ人物の足跡を知ることができる。
鹿児島県内に位置する鹿児島市加治屋町にある山本権兵衛の誕生地。山本は1852年生まれの海軍軍人・政治家で、海軍大臣として長年海軍を率い、東郷平八郎を連合艦隊司令長官に任じた。1913年と1923年に内閣総理大臣を務めた。幕末から大正期までの政治と海軍史をたどることのできる出生地である。
鹿児島市加治屋町にある海軍軍人・山本英輔の誕生地。山本は1876年に生まれ、日露戦争では第二艦隊の参謀を務めた。航空機の可能性に早くから着目し、初代航空本部長、海軍大学校長、連合艦隊司令長官などを歴任した。誕生地は、海軍航空の発展に関わった人物と鹿児島とのつながりを示す。
島津斉彬の異母弟で、幕末の薩摩藩政を動かした島津久光の像。藩主となった子の忠義を後見し「国父」と呼ばれた。明治政府では内閣顧問や左大臣を務めたが、辞任後は鹿児島で歴史書の編纂に取り組んだ。
幕末の薩摩藩主・島津斉彬が天保山調練場に置いた陣屋の跡。周辺では洋式砲術や騎兵などの訓練が行われ、斉彬は将兵を閲兵した。現在の天保山中学校の敷地に碑が建ち、海防を急いだ薩摩藩の軍事改革を伝える。
近代日本の造船・海運に関わった実業家、川崎正蔵が鹿児島に生まれたことを記す碑。1837年に大黒町の呉服商の家に生まれ、海難の経験から西洋式の造船に関心を深めた。1878年に造船所を開き、後の川崎重工業につながった。
1945年6月17日の鹿児島大空襲で、広馬場通りの防空壕にいた人々が犠牲になったことを記す鎮魂碑。春成直助一家7人をはじめとする犠牲者を悼み、命の尊さと平和への願いを後世へ伝えるため、2004年に地元の会が建立した。
近代日本の彫刻家・安藤照が1892年に生まれた地を示す碑。安藤は東京美術学校で学び、西郷隆盛像などの制作で知られる。城下の人物顕彰碑が続く一帯で、鹿児島の記憶を形にした彫刻家の出発点を伝える。
幕末の薩摩藩士・後醍院真柱がこの地から世に出たことを記す碑。後醍院は藩内の政治的対立に巻き込まれ、1850年の高崎崩れで処分を受けた。碑は幕末の薩摩で改革派が歩んだ苦難と、その後の活躍を伝える。
甲突川右岸、天保山中学校近くに建つ薩摩藩御船手跡の碑。ここには藩船を管理する役所があり、近くに船頭・水夫・船大工が暮らした。幕末には磯の製艦所で洋式船の建造にも携わった。 鹿児島市の史跡めぐりガイドでも紹介され、城下町の歴史を現地でたどることができる。
参考資料:鹿児島市史跡めぐりガイドブック中央地区PDF 59頁(資料をもとに当サイトが作成)
照国神社の境内で、戊辰戦争に従軍した薩摩藩の戦士を顕彰する碑。島津斉彬を祭る神社の一角に建ち、明治維新に至る動乱へ薩摩が関わった歴史を伝える。近くには島津斉彬公の像もあり、神社参拝とあわせて薩摩藩ゆかりの史跡を巡れる。
鹿児島市街地の戦災と復興を伝える記念碑。1945年の大規模空襲で市街地の約93%が焼失したが、市民は焼け跡から町を再建した。周辺に残る慰霊碑とともに、犠牲者を悼み、復興へ向けた努力を記憶する場所となっている。
戦災復興記念碑を示す別の地図地点。鹿児島市は1945年の空襲で市街地の大半を失い、終戦後に市民の力で街路や生活基盤を再建した。記念碑は失われた命と町の姿を思い起こし、復興の歩みを伝える。
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