鹿児島県 / AREA GUIDE
照国神社から海辺の公園や水族館へ。城山周辺と鹿児島中心部の歴史・景観を組み合わせられます。
写真や説明を読み、気になる場所を選んでみましょう。
中心から約2.5kmを目安にした周辺検索エリアです。正式な地域境界や徒歩圏を示すものではありません。
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歴史・文化
明治期の政治家、折田兼至の事績をしのぶ記念碑。折田は知覧出身で鹿児島県議や衆議院議員を務めたほか、地元の有志と新聞縦覧所を設け、後の知覧文庫につながる読書の場づくりにも携わった。碑を通じて、鹿児島の近代政治と地域の教育活動が結び付いた歩みをたどれる。
参考資料:地点ごとの調査資料(資料をもとに当サイトが作成)
島津家18代当主・家久の夫人、持明院を表した像。心優しい人柄と幸せな家庭を慕い、毎年10月5日の命日に像へおしろいや口紅を塗って祈る習わしが続く。鹿児島の城下町に残る独特の民間信仰を伝える。
自然
新屋敷町13番の新屋敷公園は、1953年4月に開かれた街区公園。市の資料では約0.11ヘクタールの広さで、住宅や事業所が混じる都心の一角に緑の空間を設けている。近くには塩竃神社と、かつての塩田や塩屋学舎を伝える史跡があり、町の歴史を歩く途中の休憩場所にもなる。
新港公園は、鹿児島港新港区に近い臨海部の公園。新港区は離島貨客船の大型化に対応して1959年に整備が始まり、現在は奄美・沖縄航路のフェリーや種子島航路の貨物船の発着拠点となっている。市街地と港をつなぐ一角で、港湾施設が集まる鹿児島の海の玄関口の雰囲気を感じられる。
新生公園は、鹿児島市上荒田町24番にある街区公園。市の都市計画公園一覧によると1952年4月に開設され、面積は約0.09ヘクタール。鹿児島中央駅の南側、上荒田町の住宅や学校が集まる市街地に残る小さな緑地で、近所の子どもの遊びや散歩途中の休憩に利用される。
鹿児島港の船形台場に明治天皇が立ち寄ったことを記す史跡。1872年6月24日、天皇はここから陸海軍の演習を観覧したと古い観光案内に記されている。新波止場近くの台場の跡から、近代化が進む港と海防の歴史をたどれる。
春日神社(かすがじんじゃ)は鹿児島県鹿児島市春日町にあるJR鹿児島駅の北東約450mの市街地に鎮座する神社。鹿児島五社の第四の神社である。春日大社系の神社とされる。
説明の出典:春日神社 (鹿児島市) · 日本語Wikipedia執筆者 · CC BY-SA 4.0(抜粋・短縮)
幕末の勤王僧・月照が薩摩滞在中に泊まった旅館「俵屋」の跡を示す碑。京都・清水寺成就院の住職だった月照は、1858年に幕府の追及を逃れ、西郷隆盛を頼って鹿児島へ来た。 鹿児島市の史跡めぐりガイドでも紹介され、城下町の歴史を現地でたどることができる。
参考資料:鹿児島市史跡めぐりガイドブック中央地区PDF 48頁(資料をもとに当サイトが作成)
薩摩藩士の有村雄助・次左衛門兄弟の誕生地を示す碑。二人は1860年の桜田門外の変に関わり、次左衛門は江戸城桜田門外で大老井伊直弼を襲った一行に加わった。高麗町に残る幕末の激しい政治対立の記憶である。
加治屋町の甲突川沿いにある歌人・木島冷明の歌碑。鹿児島県の文学碑一覧には、東風に揺れる傘と夏の祇園会を詠んだ歌が記録されている。城下町の季節の行事と川辺の風景を短歌で残し、散策路に文学の一面を添える碑である。
鹿児島県内に位置する鹿児島市薬師町にある薩摩藩士・村田新八の誕生地。村田は1836年生まれで、西郷隆盛と幼いころから親しかった。岩倉使節団に同行して欧米を訪れ、帰郷後は西郷らと私学校を設けて若者の教育に関わった。1877年の西南戦争では薩軍の部隊を率い、同年に戦死した。
参考資料:史跡・観光スポット個別解説(資料をもとに当サイトが作成)
加治屋町の甲突川左岸緑地に立つ東郷久義の歌碑。鹿児島県の文学碑一覧には、ツバメとセキレイが川辺を飛ぶ様子を詠んだ歌が掲載される。鳥の動きを通して甲突川の時間を表現した短歌に、都市の水辺を見つめた作者のまなざしが残る。
海軍軍人・東郷平八郎の誕生地。東郷は1847年に加治屋町で生まれ、17歳で薩英戦争に参加した。のち連合艦隊司令長官となり、1905年の日本海海戦を指揮した。墓と銅像は市内の多賀山公園にある。
参考資料:鹿児島市史跡めぐりガイドブック中央地区PDF 45頁(資料をもとに当サイトが作成)
鹿児島市立松原小学校(かごしましりつ まつばらしょうがっこう 英語: Matsubara Elementary School)は、鹿児島県鹿児島市南林寺町にある公立の小学校である。 校名に『松原』を使用しているが、松原町にはなく、南林寺町にある。松原の由来は校内に昔から多くの松の木を植えてあったことから「松の原」→「松…
説明の出典:鹿児島市立松原小学校 · 日本語Wikipedia執筆者 · CC BY-SA 4.0(抜粋・短縮)
松方公園は、下荒田1丁目16番にある小さな街区公園。市の一覧では1952年4月開設、面積約0.03ヘクタールとされ、周囲に住宅や店舗が並ぶ。甲突川から荒田地区へ続く街路の中で、近隣住民が散歩中に立ち寄れる身近な緑地であり、戦後から続く公園の一つである。
明治政府の財政を担い、後に首相となった松方正義の誕生地。松方は薩摩藩士として育ち、明治期には大蔵卿・大蔵大臣として財政制度の整備を進めた。加治屋町周辺に残る多くの近代日本の人物史跡の一つ。
参考資料:鹿児島の史跡めぐり資料(資料をもとに当サイトが作成)
明治期に鹿児島市の松原通町に置かれた松林小学校の跡を示す碑。市史の学校教育編には、1882年当時の市内の小学校の一つとして松林小学校が記録されている。松原町周辺の街路に立つ碑から、現在の学校配置以前にこの一帯で行われていた初等教育の歴史を知ることができる。
共研公園内に立つ松永清之丞の誕生地碑。松永は西南戦争で薩摩軍二番大隊の小隊長を務め、激戦となった田原坂で戦死した。西郷隆盛の宅地跡や旧女子興業学校の遺構とともに、公園の一角で幕末から明治にかけての地域の人物史を伝える。
1914年の桜島大噴火を記念する碑。噴火から2年後の1916年に建立され、当初は国道3号と10号が交わる南泉院馬場の中央にあった。後に道路改良で移され、大正期の大災害を市街地で伝え続けている。
下荒田の正建寺は、本長山を山号とする法華宗の寺院。西之表市の歴史資料では、鹿児島の正建寺は薩摩藩内の法華宗寺院を取りまとめる「触頭」の一つで、藩や本山からの命令を各寺へ伝える役割を担ったと記される。近くには八幡小学の旧跡碑もあり、信仰と地域教育の歴史が重なる場所である。
その他
この武家屋敷は、甲突川左岸の歴史ロード「維新ふるさとの道」に再現された江戸時代後期の下級武士の住居「二つ家」。加治屋町は西郷隆盛や大久保利通らを輩出した地域で、散策路には郷中教育のいろは歌や幕末・維新の解説も並ぶ。復元建物から、当時の武士の暮らしぶりを具体的に想像できる。
甲突川沿いの「維新ふるさとの道」にある、もう一つの武家屋敷登録地点。江戸時代後期の下級武士の住居様式「二つ家」を再現した建物で、現在の加治屋町に残る西郷隆盛らの史跡と一緒に見学できる。約440メートルの散策路には幕末の出来事を伝える解説板もあり、建物は薩摩の暮らしを知る手がかりになる。
毛利正直と薩摩の説話「大石兵六物語」を伝える碑。毛利は伝承を加筆・改作し、1784年に『兵六夢物語』としてまとめた。鹿児島城下に根付いた狐退治の物語と、江戸時代の地域文学の広がりを知る手掛かりとなる。
気象台公園は、鹿児島市荒田小学校区の住宅地にある公園。学校の地域紹介では、甲南公園や荒田公園、ルンビニ公園などと並び、子どもの安全な遊び場と住民の憩いの場に挙げられる。甲突川沿いの緑地にも近い市街地で、学校や住宅の合間に歩いて立ち寄れる場所となっている。
沖縄戦で旧日本軍第32軍を指揮した牛島満が幼少期を過ごした地を示す碑。1887年生まれの牛島は後に陸軍大将となった。周辺の誕生地碑や顕彰碑と並び、鹿児島から各地へ進んだ人物の足跡を伝える。
西南戦争で西郷軍の小隊長を務めた河野主一郎の誕生地。河野は1873年に西郷とともに官を辞し、1877年の戦争では各地を転戦した。戦後は新聞や教育活動に関わり、青森県知事なども務めた人物の出発点を伝える。
鹿児島県内に位置する鹿児島市にある洋画家・黒田清輝の誕生地。黒田は1866年に生まれ、フランスで絵画を学んだ後、帰国して日本の洋画教育に関わった。1898年に東京美術学校の教授となり、帝国美術院院長なども務めた。生誕地は、西洋画を日本に広めた画家の出発点を示す。
新屋敷町の甲突川左岸緑地に立つ、湯地定監をたたえる碑。湯地は鹿児島出身の海軍軍人で、海軍機関学校長を務めたことが公文書に記録されている。碑は乃木希典の妻・静子の生誕地を示す場所の近くにあり、同じ湯地家ゆかりの人物をたどることができる。
薩摩出身の軍人・樺山資紀の邸宅があったことを示す碑。樺山は明治期に海軍の要職や台湾総督などを務めた。鹿児島中央駅近くの旧屋敷地に立つ碑から、幕末の城下町から近代国家へ進んだ薩摩出身者の足跡をたどれる。
西千石町にある清滝公園は、天文館周辺から歩いて行ける街区公園。鹿児島市の都心部地区の整備計画では、泉公園や港公園、上本町公園などとともに、公園を安全で快適に使えるようにするリフレッシュ事業の対象に挙げられた。市街地を歩く途中の休憩や、地域の子どもの遊び場として利用される。
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