鹿児島県 / AREA GUIDE
照国神社から海辺の公園や水族館へ。城山周辺と鹿児島中心部の歴史・景観を組み合わせられます。
写真や説明を読み、気になる場所を選んでみましょう。
中心から約2.5kmを目安にした周辺検索エリアです。正式な地域境界や徒歩圏を示すものではありません。
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歴史・文化
鹿児島城下の町役所「会所」に由来する小路。鹿児島市史によれば、会所では町奉行の下で惣年寄らが町政の事務を担い、火見櫓も設けられていた。小路の名は、商人の暮らしを支えた行政と防火の拠点が現在の街路に重なっていたことを伝える。
参考資料:地点ごとの調査資料(資料をもとに当サイトが作成)
佐衛門坂は、鹿児島市坂元町から城山の北側へ続く坂の旧称を伝える石碑。地元の散策記録では「せもんざか」と読み、西南戦争の最後をめぐり、西郷隆盛の遺体の首が見つかったと伝わる場所として紹介される。城山の展望台側とは違う裏手の道筋に、1877年の戦いの記憶が残る。
傘屋小路は、鹿児島の旧市街に残る小路の名を伝える石碑。現地の地図登録には「かさやんしゅっ」という鹿児島の言葉による読みも記録されている。天文館に近い細い通りで、現在の町名だけでは分からなくなった城下町時代の道の呼び名を示す。周辺の路地を歩きながら、かつての町の区切りを考える手がかりとなる。
荒田八幡宮の鳥居のそばから延びる「八幡様通」の標識。鹿児島市史によれば、荒田八幡宮から国道225号付近まで続く荒田川沿いの道路は、川を車道とする改良工事を経て1991年春に完成した。地名と道の整備から、地域の信仰と市街地の変化を読み取れる。
鶴丸城が築かれる前、島津氏が鹿児島の本城とした内城の跡。島津氏は1550年に伊集院からこの地へ本拠を移し、港に近い上町一帯を政治の中心とした。近くの大龍寺跡とともに、近世城下町の前身を物語る。
参考資料:鹿児島の史跡めぐり資料(資料をもとに当サイトが作成)
自然
内田ヶ平公園は、鹿児島市明和の高台に近い住宅地の街区公園。国土交通省の都市公園データを利用した地図ナビにも独立した公園として掲載されている。中平公園や弥五郎平公園などが点在する明和地区の西側にあり、坂の多い住宅地で子どもの遊びや散歩途中の休憩に使われる小さな緑地である。
冷水公園は鹿児島市冷水町の住宅地にある小規模な街区公園。国土交通省の都市公園データを利用した地図ナビによると、面積866平方メートル、開設年度は1997年。城山の北側にあたる冷水地区で、坂道の多い住宅地の散歩の途中に立ち寄り、身近な緑に触れられる場所である。
鹿児島中央駅西口に置かれた屋久杉の記念木「出逢い杉」。案内文によると、急行「屋久島号」の運行を記念し、1976年5月に屋久島から当時の西鹿児島駅へ贈られた。地中で長く眠っていた杉の幹を使い、人々が出会う駅の象徴として展示されている。西口の待ち合わせの目印にもなっている。
街並み・景観
鹿児島中央駅西口に立つ、薩摩切子を題材にした「切子燈」。鹿児島商工会議所によると、2004年3月13日の九州新幹線暫定開業に合わせて除幕され、西口のシンボルとなった。薩摩藩が育てたガラス工芸を駅前のモニュメントに取り入れたもので、バスの待ち合わせ場所の目印としても親しまれている。
鹿児島城下の天神馬場通の名の由来になった千石天神。薩摩藩政期から同じ通りで菅原道真を祀り、街道の守り神、学問の神として信仰を集めてきた。天文館周辺に残る小さな社から、城下の信仰と地名の結び付きを知れる。
照国神社から照国町交差点へ続く道の古い名。かつて現在の神社の地に天台宗の南泉院があり、その寺の前を通る馬場だったことから「南泉院馬場」と呼ばれた。廃仏毀釈後の都市の変化を伝える地名である。
鹿児島市原良の住宅地にある日枝神社。鹿児島市の中世城館調査では、原良営・原良城の位置を考える際に神社の裏山も調査対象となった。境内は地域の信仰の場で、六月灯が催され、近年は子ども食堂の会場としても使われている。
原良一丁目にある原良第一公園は、原良地区の街区公園の一つ。鹿児島市の都市計画公園一覧では、開設面積は約0.22ヘクタール、開設日は2002年4月26日とされる。原良第二・第三公園とともに住宅地の中に分散して配置されており、地区の子どもの遊びや近隣住民の休憩を支える緑地である。
原良三丁目の原良第三公園は、2005年3月30日に開かれた街区公園。市の都市計画資料に記載された開設面積は約0.12ヘクタールで、同じ原良地区の第一・第二公園より小さい。住宅地に身近な公園として、地区内の公園を歩いてつなぐ際の休憩地点となり、地域の緑の連なりをつくっている。
原良二丁目の原良第二公園は、土地区画整理に伴って整備された街区公園。市の都市再生整備計画の事後評価では、公園の整備によって周辺住民が集う公共空間が確保され、バリアフリートイレも設けられたと報告されている。2011年に開設された約0.27ヘクタールの公園で、散歩や休憩にも使える。
1892年から1969年までこの地にあった四方学舎の跡を示す碑。長く地域の教育に使われた場所で、周辺の加治屋町に残る学校跡や人物の誕生地と合わせると、近代鹿児島の学びの場をたどることができる。
城ヶ谷公園は城山の東北側、長田町に近い城ヶ谷地区の公園。児童文学者の椋鳩十は、城ヶ谷から夏蔭城跡へ至る山道を、城山の面影をよく残す散歩道として語っている。城山の展望台周辺とは異なり、古い地形をたどりながら裏手の緑と薩摩藩の城郭の歴史に触れられる一帯にある。
城山団地中公園は、城山2丁目8番付近にある城山団地の街区公園。国土交通省の都市公園データを利用した地図ナビでは、面積865平方メートル、開設年度1974年とされる。城山の斜面に広がる住宅地の中ほどに位置し、団地内で歩いて立ち寄れる子どもの遊び場と休憩場所になっている。
城山団地北公園は、鹿児島市城山2丁目17番にある団地北側の公園。城山団地の坂道と住宅に囲まれた場所にあり、子どもの遊びや近隣住民の休憩に使える。団地には中公園と南公園も別に設けられており、この公園は北側の生活圏から歩いて利用しやすい緑地である。
城山団地南公園は、鹿児島市城山1丁目の住宅地にある公園。周辺情報ではトイレと遊具のある公園として紹介され、近くに城西公民館・体育館や草牟田小学校がある。城山団地の南側で子どもが遊んだり、散歩の途中に休んだりできる場所で、坂の多い地区の生活に寄り添う。
城山の遊歩道沿いに立つ、城山道路の開鑿を記念する碑。県の史跡鹿児島城跡に関する資料でも、道路やトンネルとともに城山公園の整備に関わる構成要素として挙げられている。近くには城山展望台へ向かう道があり、城山が市街地から訪ねられる公園へ変わってきた歩みを示す。
鹿児島市薬師一丁目の住宅地にある公園。園内には市の施設としてテニスコートが設けられ、近隣の運動や散歩の場になっている。城西地区の生活圏にある緑地で、周辺の学校や住宅街とともに地域の日常的な憩いの空間をつくっている。
塩屋公園は、鹿児島市甲突町1丁目の小さな街区公園。市の資料によると1954年4月に開設され、面積は約0.04ヘクタール。甲突川の河口近く、かつて塩田や塩屋学舎があった地域の住宅地に位置する。町の歴史を示す史跡とともに歩くことができ、近隣住民の短い休憩にも利用される。
新屋敷町の塩竃公園は、滑り台、ブランコ、スプリング遊具が写真で紹介されている街区の遊び場。塩竃神社や塩屋学舎の記念碑がある一帯に近く、周辺の歴史散策中にも立ち寄れる。小さな公園ながら複数の遊具があり、近隣の子どもが遊ぶ場所となっている。
夏蔭公園は、城山北側の旧「夏蔭城」跡に設けられた公園。薩摩藩が城山の北西側を守る拠点とした高台で、園内には城跡の解説板もある。児童文学者の椋鳩十が、城ヶ谷から夏蔭城跡へ続く裏手の山道を、城山らしさの残る散歩道として語ったことでも知られる。住宅地の公園と城の歴史が重なる場所である。
夏蔭公園として地図に登録されたもう一つの地点。城山北側に残る夏蔭城跡を含む公園で、かつては鹿児島城の弱点とされた甲突川上流方面への備えに関わる高台だった。園内の解説板が城跡の由来を伝え、城ヶ谷側から歩くと城山の裏手に続く地形や旧城郭の位置を感じられる。
鹿児島湾と桜島を望む清水町の高台にある公園。園内には東郷平八郎の墓と1957年建立の銅像、鹿児島で最初に築かれた東福寺城跡の碑がある。春には桜花園に多くの桜が咲き、港町の眺望と鹿児島の歴史を一緒にたどれる。
清水町の多賀山に鎮座する多賀神社は、島津義久が近江の多賀大社の神を勧請し、1579年にまつったと伝わる。県神社庁の由緒では、義久が領内の人々の長寿と安寧を願ったことが創建のきっかけとされる。周辺は東福寺城の支城・浜崎城の跡と考えられ、信仰と城跡の歴史をともにたどれる。
西千石町の大中寺は、薩摩藩ゆかりの曹洞宗寺院。愛知学院大学禅研究所の現地研修記録によると、江戸時代には多くの末寺を従えた薩摩を代表する禅寺だったが、明治初年の廃仏毀釈で寺院群が破壊された。現在の寺を訪ねると、鹿児島で仏教が失われ、再び受け継がれた歴史を考えられる。
鹿児島市の高見橋近くに立つ、大久保利通を表した銅像。大久保の没後百年を記念し、彫刻家中村晋也が1979年に制作した。本体は高さ4.3メートルで、足元には暗殺時にともに亡くなった馬車夫と馬も表現される。大久保は薩摩藩の倒幕運動を主導し、明治政府では内務卿として近代化を進めた。
参考資料:史跡・観光スポット個別解説(資料をもとに当サイトが作成)
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