鹿児島県 / AREA GUIDE
照国神社から海辺の公園や水族館へ。城山周辺と鹿児島中心部の歴史・景観を組み合わせられます。
写真や説明を読み、気になる場所を選んでみましょう。
中心から約2.5kmを目安にした周辺検索エリアです。正式な地域境界や徒歩圏を示すものではありません。
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歴史・文化
鹿児島の実業家、大坪岩次郎の屋敷跡を示す地点。大坪は鹿児島と沖縄を結ぶ海運や黒糖取引に関わった商人として研究資料に登場する。現在の市街地に残る屋敷跡の標識から、薩摩と琉球・沖縄を行き来した人や商品の流れ、近代の商業活動を想像できる。
参考資料:地点ごとの調査資料(資料をもとに当サイトが作成)
鹿児島城下の「大門口」という旧地名を示す銘碑。南林寺の大きな門に通じる道で、明治時代には料亭が並び、稲荷座という芝居小屋もあった。近くには城下の南を守った大門口砲台跡があり、宗教・娯楽・海防の歴史が重なる。
鹿児島商業高等学校天保山校舎跡地之碑
現在の繁華街「天文館」の名の由来を伝える碑。1779年、薩摩藩主の島津重豪が天文・暦学を研究して藩内へ配る暦を作る施設「明時館」を置いた。施設は別名「天文館」と呼ばれ、町の名前として受け継がれた。
鹿児島県鹿児島城跡の黎明館前庭に立つ、天璋院篤姫の像。今和泉島津家に生まれた篤姫は十三代将軍徳川家定の正室となり、夫の死後は天璋院と号した。幕末には徳川家の存続を願い、江戸城の無血開城にも関わった。像は彫刻家中村晋也が制作し、2010年に建立された。
参考資料:史跡・観光スポット個別解説(資料をもとに当サイトが作成)
太平洋戦争で亡くなった民間人を慰霊する、みなと大通り公園の碑。南日本新聞社が1974年に設置し、彫刻家・児島幸夫が制作した。大規模な空襲で市街地の大半を失った鹿児島の戦争の記憶を伝える場所である。
祇園之洲公園の太田水穂歌碑は、近代短歌の歌人が南の海から吹く春の嵐を詠んだ歌を刻む。現地の碑文には「みんなみの海のはてよりふき寄する春のあらしの音ぞとよもす」とあり、海に近い公園の景色と結び付いている。公園には薩英戦争や西南戦争に関わる碑もあり、文学と歴史を一緒に巡れる。
芸術・学び
天文館に開かれた宇宙開発の情報発信拠点。種子島と内之浦という二つのロケット打ち上げ場を持つ鹿児島の特色を生かし、JAXA、国立天文台、鹿児島大学などが展示に協力した。ロケットや人工衛星の研究を身近に知る施設。
祇園之洲にある西南戦争の政府軍戦没者墓地を示す標柱。鹿児島市史によれば、この墓地には陸海軍や警視隊、平民の死者ら計1,270人が祭られた。薩摩軍の南洲墓地と対になる場所で、1877年の戦いが双方に大きな犠牲をもたらしたことを伝える。
祇園之洲の官軍墓地に立つ、西南戦争で亡くなった青森県出身者を追悼する碑。1877年の戦争では全国から政府軍の兵士が鹿児島へ派遣され、この地で戦死した。遠く東北から来た人々の名を故郷の人々が記憶にとどめた、戦争の広がりを示す石碑である。
鹿児島城下の「家鴨馬場」を示す地名碑。明治期の鹿児島案内にも道の名が登場し、池之上町周辺にあった複数の馬場の一つとして知られる。馬場は城下の武士の生活と行き来を支えた道で、現在も石碑が独特な名を伝えている。
かつて南林寺町の松原小学校前から城南町の城南小学校前へ延びた道を「寺之馬場」と呼んだ。南林寺は島津貴久の菩提寺として創建され、現在は跡地に松原神社が鎮座する。銘碑が寺院を中心とした城下の道筋を伝える。
鹿児島県鹿児島市山下町に立つ薩摩藩家老・小松帯刀の像。小松は藩政改革を支え、大久保利通らを登用し、坂本龍馬や長州藩との交渉にも関わった。1866年の薩長同盟は京都の小松邸で結ばれた。西俣敏弘が1993年に制作した像で、幕末の外交と藩政を担った人物を顕彰する。
鹿児島城下の古い通り名「山之口馬場」を伝える銘碑。天文館の南に広がった馬場の一つで、明治期には鹿児島市役所がこの町に置かれた時期もある。周辺に残る二本松馬場などの碑と合わせ、現在の市街地に昔の区画を重ねられる。
自然
岡山公園は、鹿児島市薬師地区にある小さな街区公園。国土交通省の都市公園データを利用した地図ナビでは、面積497平方メートル、開設年度2004年とされる。西田小学校や新上公園にも近い住宅地の中で、子どもの遊びや散歩の小休憩に使える、徒歩で立ち寄りやすい公園である。
甲突川の五石橋の建造を指導した石工、岩永三五郎の像。熊本の石工の家に生まれ、1840年に薩摩藩に招かれた。新上橋、西田橋、高麗橋、武之橋、玉江橋の五つのアーチ石橋を架け、城下の交通と治水に関わった。祇園之洲町の像は、鹿児島の石橋文化を支えた技術者の仕事を伝える。
薩摩藩の島津山城殿下屋敷の外塀に関わる遺構。浜町遺跡の発掘では、屋敷との境界に長さ約75メートル、幅約50センチの布掘りの跡が確認された。江戸時代の城下絵図と遺構を照合すると、港に近い埋立地にあった屋敷の区画を読み取れる。
鹿児島県内に位置する鹿児島市街地に立つ薩摩藩主・島津忠義の銅像。忠義は島津久光の長男で、1858年に第29代藩主となった。斉彬が進めた改革を引き継ぎ、藩の軍備や産業の整備に関わった。薩英戦争後には英国との関係改善が進み、留学生派遣や磯の紡績工場建設へとつながった。像は幕末の藩主を伝える史跡である。
鹿児島県内に位置する照國神社境内に立つ薩摩藩主・島津斉彬の銅像。斉彬は島津家第28代当主で、集成館事業を興し、産業・科学・軍事の近代化を進めた。像は彫刻家の朝倉文夫が1917年に制作した。神社は斉彬を祭神とし、境内の像とあわせて幕末の薩摩藩政をたどることができる。
甲突川左岸緑地帯の市民広場は、川沿いの散歩や催しに使われる開けた場所。鹿児島市の記録では、春を告げる「春の木市」の会場として紹介され、植木や花を選ぶ人でにぎわう。大久保利通像やライオンズ広場に近く、近代の史跡と日常の緑地を一緒に巡れる。
常盤公園は、常盤2丁目6番にある街区公園。鹿児島市の都市計画資料では1954年4月に開設され、面積は約0.13ヘクタール。鹿児島中央駅の北西側に広がる常盤の住宅地にあり、町内を歩く人や子どもが立ち寄れる緑の空間である。周辺には薬師公園や新上公園も点在する。
江戸時代の薩摩藩家老・平田靱負の屋敷跡を整備した公園。靱負は幕府の命で木曽三川の治水工事を指揮した。園内には宝暦治水200年を記念して1954年に建てられた銅像があり、屋敷跡は鹿児島県の史跡にも指定されている。
薩摩藩家老・平田靱負の姿を表した銅像。幕府に命じられた木曽三川の宝暦治水で工事を指揮し、水害に苦しむ地域を救うため藩士をまとめた。大きな犠牲を伴った工事と薩摩義士の働きを鹿児島の町で伝える。
鹿児島出身の政治家・床次竹二郎の姿を顕彰する像。明治から昭和初期にかけて官僚・政治家として活動し、内務大臣や鉄道大臣などを務めた。公園の像から、近代日本の行政と政党政治に関わった薩摩出身者を知ることができる。
座禅石公園には、若い頃の西郷隆盛や大久保利通らが座禅を組み修養したと伝わる「坐(座)禅石」が残る。石はかつて警光寺の庭にあったもので、住職の円了無参に教えを受けた志士たちゆかりの史跡として、1977年に鹿児島市の記念物に指定された。護国神社から城山団地へ上る坂道沿いにある。
武二丁目の建部公園は、鹿児島市の都市計画公園一覧に載る街区公園で、1980年4月に開設された。面積は約0.09ヘクタールと小さく、近くには建部神社や武岡トンネルに向かう道がある。市街地の生活道路に沿った休憩場所として、神社周辺を歩く途中にも立ち寄れる。
武三丁目の建部神社は、武岡トンネルの入口上に鎮座する神社。市の武・田上地区文化財ストーリーは、街道沿いの社前と、神社の下を通る現在の道路の関係を紹介している。境内には古い石碑もあり、古くからの地域信仰と、後に整備された都市交通が重なる場所を歩いて確認できる。
弥五郎平公園は、明和1丁目9番の住宅地にある街区公園。鹿児島市の指定緊急避難場所一覧では面積5,352平方メートルと記載され、同地区の小さな公園よりゆとりのある空間を持つ。明和小学校や望岳公園にも近く、普段は子どもの遊びや散歩に、緊急時には地区の空地として役立つ。
城山公園内に立つ、日露戦争で亡くなった旧制学校の生徒らを悼む石碑。鹿児島市の『鹿児島の金石文』に碑文が収録され、鹿児島県立中学校・造士館などから従軍し帰らなかった二十人を記す。1911年に第七高等学校造士館長の岩崎行親が文章を撰し、碑の背面には犠牲者の氏名が刻まれた。
上本町11番の恵美須公園は、鹿児島駅に近い旧市街地の小さな街区公園。市の一覧によると1958年4月に開設され、面積は約0.04ヘクタール。園内には秋葉神社もあり、日々の休憩場所と地域の信仰が隣り合う。上町の街路を歩く際に立ち寄れる身近な緑地である。
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